昭和44年11月18日 朝の御理解
入力者=末永静行
御理解第17節
「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」
せっかく御神縁を頂きながら、その、御神縁の綱が切れてしまう、とうとう神様はおかげを頂かせてはくれなかった、こんなに切なる願いであるのに、神様は聞いては下さらなかったと、と言うようなことでしょうね。
それで、これだけ願っても、また参ったけれども、おかげを頂けなかったと、いわゆる、せっかくの御神縁の綱を切ってしまう、やはり、一つの切実な願いと言うものを持って、その願いが成就しないなら、やはり、そういう気もまあ当然すると思うんですね。
けれども、神からは切らぬと、氏子から切るなと仰せられますから、そこん所を一つ、よくわきまえておかんといけない、ですから、問題は、その、願いの筋です、ね、願いの筋を検討しなければならんということ、願っておる事は例えて、まあ、やはり、いうなら、どうでも一つ、100万円の宝くじに当選したい、あたりたい、毎月とばしておらん、ところが、当たらなかった、ほら望みを捨てちゃならん、絶望しちゃならん、神からは切らぬと仰せられるから、とにかく当たるまでは続けねばと、例えば10年も、20年も続けたと致しましょうか、ね、はぁー、これだけは、もう、この祈念を貫かなきゃ、一生かかっ立っちゃと、例えばいうてもですね、そういう、例えば願いであったとするなら、願いだとするならです、ただ、ただ、その、金光様と言う、その、縁に繋がって、それをしっかり握ってお礼と言うことではないと思うですよね。
神様から縁を切られる事は無い、こっちから切らぬ、でその、縁を切らないと言う内容が、ただいま申しますような、いわゆる、極端な例ですけれどもです、ね、これでは、あ~、おかげを頂かれない。いよいよ、おかげを頂くという事によって、神様との縁と言うか、神様の心の深さというものを段々分からせて頂くのですから、やっぱりおかげを頂かなければならんのですけれど、その、おかげが、ね、いかに願っても願っても、もう、それこそ、ひとだもおせども、びくともせんというような事に願いをかけておるような事では、ね、いくら神様が今はきなさらんとしたどころども、おかげが受けられなかったらつまりませんからね。それが、大変なんて言うんですかね、( ? )とでも申しましょうかね、なら立ちますと、その願いは、もう、立派なように思います、これは私の例をとると。
どうでも一つ、一角の商人にならせてもらいたいと、一番いい主本です、けれども、無限力をもってござる神様におすがりをして、おかげを頂こうと、まあ、いやば、発願した、一心発起、そのために一生懸命の修行を心にました。
神様はこの調子だとこれは聞いてくださるかなと思うような時もあった、けれども、段々、商売中の上にも難儀なことが起きてくる、最後にもう、ゆうかゆを致命的な、あの、損害を受ける事になったり致しましたら、神様はもうおかげを下さらない、ですからその時に私は信心をこれだけの信心をして、これだけの修行をさせてもらっとるとに、これほどおかげにならんというて、あの、止めておったら、やはり、神の綱をこちらからはずしたり、切ったりした事になっとったでしょうけれども、そこで、気付かせて頂いた事が、ね、これは私の願いと言うものは、これは本当の願いじゃないなあと言うことでした。
勿論、私はさっき申しますように、公儀名聞というか、私はね、自分のために大きな商売人になろうと思う、自分のために儲け出そうと言うけちな心じゃありません、金光様の信心しよったらあー言う大商人にならっしゃった、いわば、金光様の名が輝く事のために成功したい、またどのような御用でもです、力を頂いて、まあ、例えていうなら、さぁーお金で済む事なら、私が一人でおかげを受けましょうと、いう、いわば、そういう腹で神様におすがりをしておるのに、どういうわけ神様はおかげを下さらんのだろうかと、というような、いわば、それ公儀名聞というかね、たっておった、筋が立っておるように思えた。
ところが、今申しますように、願えども、願えども、いわば、引けども押せどもびくともしないどころか返ってそれは、マイナスになっていくといったような事でございました、時に気付かせて頂いたのが私の願いと言うものは本当ではなかったと、あれは、まあ、いろいろありますね、自分の願いというものをどうでもと、こう、お願いをする、お願いが叶わない時にそのどうでもと言う我情をポッと捨てますとね、それが、不思議におかげになってくる事がありますね、あの、不思議なんと言うかね、それを我情と言うのが、もうすでに執念ですから、そういうものはね、神様の期間に叶わんからおかげにならん事があるんです。
先日、ちょうど青年会の日に、いつぐらいでしたでしょうか、北野の日吉さんがある問題をここにちょっとお願いをしておられた、妹さんが東京へ行っておりましたが、去年でしたかね、こちらへ帰ってまいりまして、こちらで勤めておったけれども、こちらの勤めは思わしくない、それで、もういっぺん東京の方へ行きたいと、家族のもの、兄さんである日吉さんもその事を極力する、止められるけれども、言うこと風ではない、嫌と、田舎じゃいかん、東京へ行くという訳である、で私お願いに見えて、私はどげん考えても妹の東京行きは不賛成だけれども、行くとこういわれる。
それで、私は申しました、日吉さん、言って良いとか悪いとかいうようなことじゃなくてね、やはり、任せなさいけませんよ、いうなら、どうでも良いということなんです。どうでも良いと思う、先ずはそんなにいうことを聞かんなら、もうお前ごたるはかまわんぞと、いうのではなくて、神様には一心に縋ってやって、ね、縋ると言いや、本当に妹の幸せを願うての、いわば、おすがりなんです、右左はもう神様にお任せする、そしたら気持ちが楽になるです。ね、いち、まあ、お繰り合わせは私がお願いをするから、あんたはそういう気持ちになりなさいち、こういうお取次ぎをさせて頂いた。
毎日お参りして見えるもんですから、もうそんなやっぱり、自分の事を願ってくれてると思うから、兄さん、金光様はどげん言いなさったかっち、もう、お前の事は知らん、お前の事はもう願わんじゃった。お前のよかごつせろっちいうてから、まあ、言葉の面でそういう風に言われたとこういうんです。
ところが、改まって考え出したらしいですね、まあ、いうならば、いっちゃいかんぞ、いっちゃいかんぞという時に、いや、どうでも行くちいうて、切符まで買(こ)うた、ね、そして、いろいろ本気で考え出してから、結局どういうたかと言うと、兄さん、やっぱ東京行きは断念すると、だから、すまんけど切符はまた払い戻しして、横でという事になったというて、ここでお届けをしておられます。この我情をするということはね、もう本当に我情我欲を放れて、ね、真の道を分からせて頂く、そこには、わが身は神徳の中に生かされてあるなあと、御深慮、御深慮の中にあるなと分からせて頂くもんです。
だから、自分の一つの願いとか信念的なものを、があってはね、その事じたいが神様の心の機関に叶わんのです。ですけれども、その願いがあるからこそ、自分は信心しておるといったような信心をですね、私だんだ改めて頂きゃいけない。その、いかにも一年も貫くと言う事はですね、いわゆる、間違いが無いところに一念を貫かなければいけない、それは、私共が段々、この事は間違いが無い、この事は神様じゃろうと見てくださることだと、いうふうに思うておることが、実をいうたら多いにして間違っておるから、そこにやはり気付かせてもらわにゃいかん、これだけ願っても、これだけ押してもびくともしないならばです、ね、お互いの思いをそこんところをさらっとその思いを捨てる私は信心が必要である。
だから、そこんところを、私はいつも申しますように、一角の商売人にならせてもろうて、大きな御用でもさせてもらうと言う事を神様喜んでくださる事だと思うておった。もう今度からが無いことは無いだろう、例えばそういう、けなげな思いを発心するのですからね、けれども、神様はより大きな、より本当なおかげを下さろうとする場合、ね、そこに、もう、引けども押せどもということになってくる時に、これほど信心するのにと言うて神の綱を放すようなことを仰ずに、その、自分の思いが変えられていかなきゃいけん。 ここの自分の思いを変えていくということなんですけれどもね、またの御理解に、皆は祈る所をここへ参ってくるが、ね、此の方は参って尋ねる所がなかった、ね、皆はここへお参りをしてくるが、ね、いわゆる、神の言葉と言う、神の云うことを聞いて帰ることが出来る。しっかり信心して、みしのぎの出来るようになれと、よういうの御理解がありますね、それまでには、やはり教祖の神様ご自身も、神様からいちいちお伝えがあると言うまでには、まあ、大変な難儀の中に、もう本当に絶望、普通の者ならするだろうという所をお通りになっておられる。その時に教祖様はなんちいうですかね、思え変えをしておいておられんたですね、思え変え、自分の思いをその都度、その都度に変えていかれた、その思い変えが、間違う、間違いますとやっぱり失敗です、ね。
これだけお願いをしたのにおかげを頂かれなかったと、これは神様にご都合のある事じゃろうと、例えば、また、難儀にあっても、ね、まあこのぐらいな難儀で済んでよかったと、もっともっと難儀がかかってくるところをこのぐらいにしておかげを頂いたというふうに思いを変えていくことによってですね、その辛抱、信心も続けられておられるです、ね。
けれども、私はそれではですね、それでは、やはり、いつまで立っても、自分ぐらいな思いをよくして行く事はつまりませんから、ね、それで、ここへ参ってくる者はそういう意味での私は思い変えではなくてです、本当に願い変えをしていかなきゃいかん、ね、思い変えではなくて願い変えをしていく、そこにはです、願い変えをして生かせてもらう、その、一つのきっかけというか、それを話にして聞かせて頂くのである、ね、皆さんの例えば願いが、これほど信心するのに、いわば、おかげにならんというならですね、皆さんの願いそのものをです、ただ、まだ信心が足らんからだろうとか、神様のご都合だろうかと言う思い変えしていくようなものではなくてですね、願い変えをしていくというところに、やはり、いわば、まあ、心を見ていくというね、信心が必要なのです。
これだけ願ってもおかげにならん、ならです、その願いの筋を変えていく、その事を例えば、御理解下さる訳ですねいろいろ、なら今日もそういう訳なんです、ね、私の願いが一応は、神様のお喜び頂けるような願いであったと思われるから、なるほど、おいたものをとるようにしておかげを下さった時代があったんだけれども、それでピッタリそのおかげが止まるどころか、反対にマイナスになってくると、そこで、私はです、考えた、いわゆる、これは神様のご都合じゃろうと言うふうには頂かなかった、ね、まあ、まあ、このぐらいな損でよかった、命あって( ? )、命があるという事がまだおかげだからというて、その事を願い続けておったら、現在は祈ってなかった、ね。
そこに、私の願いの間違いを悟らせてもろうて、願い変えをしていくことになった、それで、私は、ある時、親先生にお取次を願いました、『これほど親先生、貴方がお取次をしてくださる、お願いをして下さってもおかげになるどころか、反対にこう言う結果になっていくのでございますから、どうぞ、今までの願いは全部願い下げて頂きたい、もうこの願いはして頂かんようにして頂きたいという願いを立てた、ね、そげんところを押していかずに、ね、その願いを、そう言うお取次、そういうお願い、そして、私はここに気づかせて頂いたことはです、人間氏子一人ひとりの上に神様の願いがあり、神様の思いが掛けられてある、とりわけ、御神縁を頂いたのですから、ね、しかも、御神縁を頂いて、段々信心を分かる、この、進めておるのですから神様の心が動くのも当然、神様、いわば、氏子に掛けられる願いも掛けられるのは当然、そこで、神様のその願い、私にかけられておるそのものがです、成就していくということにお願いをしてください』というふうにお願いをさせてもらいました、ね。
そこから、ますます、ただし難儀な事は続きましたけれどもです、その頃から本当の信心の例えば喜び、当時、久保山先生やら、その事を、もういよいよ信心が架橋になりましたね、というておられました。信心が、もう、自分のが我情我欲じゃない、商売繁盛のおかげを頂くという我情我欲のためじゃない、神様に喜んで頂くために繁盛を願っておる、ね、けれども、やはり、厳密にいうとその内容というものはやはり我情であった、我欲であった、ね、自分の思いを貫こうとしておるのですから、我情です、そして、成る程、私だけは儲かろうとは思いません、まあ、例えば100万円儲かったら50万なら神様にお供えしますというにあげたら、喜んでくださる、こっちんと半分の50万は自分がやっぱやるようと思いよる、やっぱり我情我欲であったということです、ね。
そういう願いを立てて、本当におかげを頂く時代もやっぱあるんです、だから、一段一段その願いがですね、いわゆる、高度な願いに変わっていって、願い変えをしていくところ、そこが、いよいよ本当な願いが立てられる。
そして、それが今もなお続いて、これはもう決定版だと、願いの決定版だと、現在私が思うておる事は大変その時に発害したように、これは、私大坪総一郎に掛けられる、やはり願いがある神様が、だから、その願いが成就致しますようにというて願い、その願いが成就するしないは別として、ね、嫌、むしろ難儀な事が起こってきたけれども、その難儀は神様の願いが成就する事のための修行だと言うふうに頂いてまいりますところから信心架橋になってきた、素晴らしいでしょうこの辺が、ね、どう言う難儀な事に直面してもです、ね、神様のいよいよ願いが成就する事のために、と言う修行で受けると言うのですから、もうそこにはあれもおかげ、これもおかげという信心がでけていきよる。
ところが、なら、自分の願いそのものがです、まだ商売繁盛に、のための願いであったとするならです、ね、そんためにはどんな修行を致しますというてもです、それは信心の、また修行の楽しみとか喜びもありましょうけれども、架橋になるという事は無いと、自分の信心がいよいよ神様の心、いわゆる、確信に触れ行く、その事が神様としても内心、もう、ね、いわゆる、喜んでおられる訳ですから、その喜んでこちらへ伝わってこないはずが無い、そういう喜びがです、ね、久保山先生が信心、架橋になってこられたというふうに云うておられた、また、自分でもそれを思います。
信心が架橋になってくる、だから、信心がですね、本当の信心の喜びの、いわゆる、架橋と言うほどしの、この、境地と言うものはです、ね、ねがっ、ただ一生懸命修行するとか、一生懸命お参るというような事で与えられるものじゃない、ね、願いの筋がちゃんとして、その事にかきあえる修行であり、一生懸命であって、初めて信心の架橋というものがあるのです、ね、いわゆる、真の喜びというのがそこから頂けてくるようになる、だから、その真の喜びに対するところの、いわゆる、おかげ、真の喜びと言うおかげの受物を持って受ける所のおかげはおかげそのものも本当な物になってくる訳である。ね。
神が、神の綱が切れたと言うがです、神からは切らぬとこう仰せられる、これだけお願いしてもおかげにはならん、神様はいうことを聞いてくださらなかったと、それは自分の我情、自分の我欲、いわゆる、自分の思いを貫こうとする、いわば、いうなら、浅ましい心です、ね、それは信念、自分の思いを貫こうとする、しかもそこにはいかにも公儀名聞がたっとるような願いでありましてもです、それにびくともしないならば、そこに一つ、思い変えではなくて、願い変えをしなければいかん、気付かなければいかん、この願いは間違えておったと気付かにゃ、ね、そして、ギリギリの所、神様の願いが成就していく事のために、勿論、私に掛けられた願いである、ね、そこからです、神の綱が切れたところではなくて、ますます、神の綱と言うものは、もう、ね、たぐりをよせるだけよせられ、もう力いっぱいその綱が( ? )なってくる、そこから、信心の架橋と言うものが抱けてくる。
なるほど、神からは切らぬと仰せられることが分かる、ね、そして、神からは切るとか切らないとかといったようなものではなくて、ね、それは、親子の縁というものがどんなにも、もうお前は(間道かんどう?)だといわれた所でです、いかにも親子の縁が切れたるようにあってもです、親子の縁がそんなに簡単に切れるものじゃない、簡単に絶対に切れるものではない所まで信心が向上する、ね、そこまで信心がまりりますとです、ね、例えば、切るにも切りようもないほどしの所の、までの信心がでけてくるわけです。
それを一七節の次ぎ、18節の所には此の方ばかりが生神ではないと、ここへ参ってくる人々がみな神の氏子じゃ、生神とはここに神が生まれるということであってというようにです、私共が生神を目指しての信心、そこに、生神に一体になれる道、生神になれる道と言うのは生神と一体になる道、天地の親神様と一体になれれる道、ここにはもう、一生にこうなったんですから、これが外れるはずもなかなければ、切れるはずも無い、ね、信心の究極の目指しはやはりそこなのです、そこまでに、行くまでに、せっかく親子の名乗りが出けたようにあったけれども、本当の名乗りは嫌でけとらん証拠にです、これだけお願いするということ聞きなさらんじゃったというて信心を止めていく人もたくさんある。
そういう時に気付かせて頂いてです、その人の願い変えをしていくような信心になって行きゃです、そこからおかげを受けられるのにね、ね、願い変えをせずにです、ただ、自分の願いが成就しないということだけに焦点を於いて神様が力があんなさらんように思うて神の綱を自分からはずしていくというな結果になる、ね。
神の綱が切れたと思われるほどしに、の難儀に、例えば、直面した時、する時ですね、いよいよ、信心が架橋になってくる絶好の機会なのですから、ね、そのためには、なら、その願いを続けていっただけでは駄目なんだ、ね、それは、100万円の宝くじをどうでも当てて頂きたい、5年もおろか、10年でも辛抱する、それだけでも当たらんなら、これは神様のご都合だろうというて、尚、願い続ける、そういう、例えば、極端な話ですけれども、そういう願いを掲げて、いかに修行をしたところでです、ね、これではおかげの受けられようはずはない、いかに、神の綱をにぎっとったというても、それは、握っておるというても、おかげが頂けようはずがない、おかげの表れどころが無い、ね、そういう、思いは、いわば、切り捨てていく、その思いを、いわば、捨てていく、ね、そして、より本当な願いに願いを変えていくと、その、私は最高のものをです、私共の願いというものを捨てて、神様の願いに立った信心、ね、自分本位の信心から本当に神様本位の信心にならせて頂く機会を、神の綱が切れたと思われるような時に、そこん所を頂いて行けれるような信心をです、しっかり稽古しておきたいと思うんですね。
どうぞ。
末永静行
2006年2月21日